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貞心尼 年譜

貞心尼 年譜
西暦 元号 年齢 解説
1798 寛政10年  1 長岡藩士奥村五兵衛(ごへえ)の二女として奥村マス生まれる。
1800 寛政12年  3 幼(3才)にして生母と死別。継母に仕える。
柏崎中浜のうば(八重?)を慕う。
1809 文化6年 12 マス12歳の時、柏崎の中浜村が生家のうばに連れられて、柏崎へ遊びに行く。そのうばの親分たる柳橋の関矢大之宅に泊まった。
中浜の金比羅さん脇薬師堂から海というものを初めて見る。
1813 文化10年 16 関長温は龍光村の下村家(現堀之内)に生まれ、吉水の関家の養子となって医者になる。
医師関長温(ちょうおん:不詳〜1827)小出嶋村の西井口家敷地に空いた家があると聞いて、そこで開業する。
1814 文化11年 17 奥村マス、医師関長温に嫁す。
1820 文政3年 23 3月結婚生活(8〜9年期間は正確には解らない)は幸福でしたが、子宝に恵まれず夫長温と離別し生家の長岡に帰る。
1820 文政3年 24 柏崎中浜生まれのうばに伴われ、浄土宗西光寺の末寺・閻王寺(えんのうじ)に駆け込んだ。

柏崎下宿(しもじゅく)の閻王寺(えんのうじ)で剃髪し尼僧生活に入る。心竜尼(しんりょうに 不詳〜1840)、眠龍尼(みんりょうに 不詳〜1838)の姉妹尼の弟子となる。

閻王寺は本尊は阿弥陀如来だが、寺の名のとおり閻魔大王像以下があった。
1825 文政8年   秋、実家を訪ねる。
1826 文政9年   正月1日(陽暦2月7日)、父奥村五兵衛死去す。
1827 文政10年 30 2月、関長温死去す。

3月、長岡在福島(ふくじま)の閻魔堂(えんまどう)に移る。
元庄屋の桑原氏のお世話で住みついた。
移り住んだ時期は正確にはわからない。
閻魔堂脇の樹齢400年という大ケヤキ、貞心尼も見ていたに違いない。
 「あさげたく ほどは夜のまに 吹き寄する 落葉や風の 情けなるらむ」 貞心尼

文政10年(1827年)卯月(旧暦4月)15日付で島崎村(現在和島村)能登屋元右衛門の妻宛に「当分柏崎へは帰らぬつもりにて、幸いこのほど福島と申すところに空庵の有候まま当分そこを借りるつもり…」と手紙を送っている。


4月上旬、塩入(しおのり)峠を越えて、島崎の木村家庵室の良寛を訪ねる(不在)。
木村家に手作りの手まりと和歌を良寛に渡して戴くよう、お願いの手紙を書く。
 「これぞこの 仏の道に 遊びつつ つくや尽きせぬ 御法なるらむ」 貞心尼

夏、良寛は寺泊の照明寺密蔵院で過ごす。

秋、貞心尼からの手まりと和歌を受け取り、手紙で歌を返した。
 「つきてみよ ひふみよいむなや ここのとを とをとおさめて またはじまるを」 良寛

秋、貞心尼30歳、良寛70歳の時、島崎能登屋(木村家)邸内の小庵で貞心尼は初めて良寛に逢うことが出来た。
 「君にかく あい見ることの 嬉しさも まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思ふ」 貞心尼
 「夢の世に かつまどろみて 夢もまた 語るも夢も それがまにまに」 良寛
 「白妙の 衣手寒し 秋の夜の 月なか空に 澄みわたるかも」 良寛

 「向かひゐて 千代も八千代も 見てしがな 空ゆく月の こと問はずとも」 貞心尼
 「心さへ 変はらざりせば 這ふ蔦の 絶えず向かはむ 千代も八千代も」 良寛
 「立ち帰り またも訪ひ来む たまぼこの 道の芝草 たどりたどりに」 貞心尼

良寛の歌の弟子となる。良寛70歳。
以来4年あまりの短い、暖かく心の通った師弟関係が続く。
1828 文政11年 31 晩春、木村家庵室の良寛を訪ねる。
「秋萩の 花咲く頃は 来て見ませ 命またくば 共にかざさむ」良寛

夏、良寛を訪ねる。
「秋萩の 花咲く頃を 待ち遠み 夏草分けて またも来にけり」貞心尼
「秋萩の 咲くを遠みと 夏草の 露を分けわけ 訪ひし君はも」良寛

秋に貞心尼が良寛を訪ねる約束になっているのに10月になっても音沙汰がないので、良寛は「霜月4日」付の手紙で問い合わせている。
「君や忘る 道や隠るる この頃は 待てど暮らせど 訪れのなき」良寛

このとき貞心尼は、柏崎・閻王寺に帰っていた。いろいろ事情があったらしい。

11月12日、三条大地震。
1829 文政12年 32 3月頃、貞心尼は福島・閻魔堂に戻った。

夏、木村家庵室の良寛を訪ねる(不在)。
「来て見れば 人こそ見えぬ 庵守りて 匂う蓮の 花の尊さ」貞心尼
庵室に帰った良寛は貞心尼の歌への返歌を詠んだ。
「御饗する ものこそなけれ 小瓶なる 蓮の花を 見つつしのばせ」良寛
1830 文政13年 33 3月、与板山田家で良寛と貞心尼は落ち合う。
「いづこへも 発ちてを行かむ 明日よりは 烏てふ名を 人の付くれば」良寛
「山がらす 里にい行かば 子がらすも 誘ひてゆけ 羽根弱くとも」貞心尼
「誘ひて 行かば行かめど 人の見て 怪しめ見らば いかにしてまし」良寛
「鳶は鳶 雀は雀 鷺は鷺 烏と烏 なにか怪しき」貞心尼

同年8月18日付地蔵堂中村家で書いた良寛から貞心尼宛の「福島・閻魔堂を訪れる約束を果たせない。」という書状が遺されている。
「秋萩の 花の盛りも 過ぎにけり 契りしことも まだとげなくに」良寛

天保元年12月下旬、良寛危篤の知らせで、貞心尼は島崎へ急行。良寛を看病する。
「いついつと 待ちにし人は 来たりけり 今は相見て 何か思はむ」良寛
「生き死にの 境離れて 住む身にも さらぬ別れの あるぞ悲しき」貞心尼
1831 天保2年 34 正月6日(陽暦2月20日?)、木村家で良寛禅師死去す。74歳。
「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」良寛辞世の句
最後の唱和
「来るに似て 返へるに似たり 沖つ波」貞心尼
「明らかりけり 君が言の葉」良寛


木村家の家族、弟・由之(ゆうし)、貞心尼、遍燈(へんちょう)らに看取られた。
正月8日、葬儀。野辺送り、荼毘に付された。
大勢の参列者。
1833 天保4年 36 3月4日(陽暦4月23日)、良寛禅師の墓碑が建立され(和島村島崎隆泉寺・木村家墓地)。三回忌・追善供養が執り行われた。
式より前、墓が建てられるとすぐに貞心尼は詣でたらしい。

「立ちそひて 今しも更に 恋しきは しるしの石に 残るおもかげ」貞心尼
「そのままの 手向けなりけり 御仏の 御のりの庭に 匂う梅が枝」貞心尼

良寛死去後、妙現尼(良寛の末妹 みか)と唱和した歌
「別れては 立ちも帰らぬ さす竹の 君がかたみの 我身悲しも」貞心尼
「むらぎもの 心は君に かけながら 逢うことかたき 身をいかにせん」妙現尼

生家の継母死去す。
1834 天保5年 37 1月13日、良寛の弟由之死去す73歳。

小出の松原雪堂なる人に依頼し、良寛禅師の肖像を描いてもらい、その礼に良寛の手紙をやる。
「秋萩の 花の盛りも 過ぎにけり 契りしことも まだとげなくに」良寛
この肖像画がどうなったか不明である。
1835 天保6年 38 5月1日、″蓮の露″(はちすのつゆ)完成する。
師良寛の歌をあちこち訪ね歩いて集め、良寛と詠み交わした相聞歌(そうもんか)を書き添えて、良寛歌集「はちすの露」にまとめた。
「はちすの露」命名の由来
 「これをこそ まことの玉と 見るべけれ つらぬきとおし 蓮葉のつゆ」 静理(やまだせいり)
1838 天保9年 41 長岡新屋敷町広井伝佐衛門の娘が6歳で弟子となり孝順(こうじゅん)尼という(1832〜1895)。

4月15日、心龍尼の妹眠龍尼死去す

この後貞心尼は長岡・閻魔堂を引き払い、預かった幼い里子・孝順を伴って柏崎に戻る。
1840 天保11年 43 6月28(29)日、最初の授業師である心龍尼死去す。
1841 天保12年 44 3月、曹洞宗の宝竜山洞雲寺(とううんじ)25世泰禅(たいぜん)和尚(1796〜1859)について得度(とくど)をし、心龍尼の跡を継いで釈迦堂の庵主となる。泰禅和尚は心竜尼、眠龍尼姉妹尼の弟。

釈迦堂は正貞尼(1777〜1862年)が一堂を建立したもの。貞心尼が庵主となってから、この庵は柏崎の文化人達の一面では道場であり、一面では楽しい遊び場でもあった。貞心尼は多くの人々から敬愛され、歌会等には欠かせない人であった。
1843 天保14年 46 泰禅和尚が釈迦堂に訪れて、良寛禅師の吟歌集をみて絶賛する。
1844 天保15年 47 関矢大之に良寛の歌を贈る
 「流れ行く 絶えぬ形見と 贈るなり わが法の師の 水茎のあと」 貞心尼
1847 弘化4年   8月12日 長岡・福島から連れてきた弟子智徳明全尼死去す。
1851 嘉永4年 54 4月21日、柏崎大火により釈迦堂も類焼す。この時貞心尼達は長岡の父の墓参りに行っていて不在であった。
「はちすの露」は貞心尼が肌身はなさず持っていたためか焼失を免れている。
 「来て見れば しらぬ野はらと やけはてて 立ちよるかげも なきぞかなしき」 貞心尼

関矢大之方へ10日余り身を寄せる。
5月、広小路(ひろこうじ)妙蔵寺内の観音堂に住す。
9月、山田静里(1784〜1862)等より浄土宗極楽寺の隠居寺・眞光寺(しんこうじ)脇に不求庵(ふぐあん)がたてられ、終生のすみかとなる。(8畳4畳3畳)

極楽寺 静誉上人(じょうよ)が描いた、貞心尼晩年の病中の肖像画が今も所蔵されている。

この年に″焼野のひと草″が書かれる。

「不求庵」と名付けられた。「求めずして自ずから得る」と山田静里は説明している。
1859 安政6年 62 5月14日、長岡屋敷町高野次郎兵衛殿の娘が智譲(ちじょう)尼(1852〜1932)と改め、8歳で弟子入りす(後に再建された釈迦堂の庵主となる)。

7月、西井口家の葬儀に小出嶋村を訪れる。
 「あるじなき 宿ともしらで ふる里の 庭の秋はぎ 今や咲くらん」 貞心尼
 「来てみれば 袖ぞぬれける(露けき) ふる里の 垣根まばらに 咲ける秋萩」 貞心尼

12月8日、剃髪の師、泰禅和尚死去す、64歳。
 「あま小船 のりのしるべを 先立てて かぢ流したる ここちこそすれ」 貞心尼
1860 万延元年 63 3月、歌友星野輝直(8代藤兵衛)死去す、36歳。
1862 文久2年 65 6月16日、山田静里(方寸居翁)死去す、79歳。
 「身もやがて あとおひ行きて 極楽の はちすの花も ともにながめむ」 貞心尼

正貞尼死去す。(1777〜1862)85歳 菩提寺は香積寺。
1865 慶応元年 68 良寛詩集を出版するために暮頃より上州前橋龍海院蔵雲和尚(ぞううんおしょう)が訪れ、それからしばしば手紙のやりとりがあった。長野県穂高村生まれ。
1867 慶応3年 70 わが国最初の良寛詩集「良寛道人遺稿」(蔵雲編・江戸尚古堂)刊行される。
 「仰ぎつつ 見ん人しのべ 優曇華の 花にもまさる 言の葉ぞこれ」 貞心尼

小出嶋村の西井口家を訪れている。
 不二「みるたひに めづらしきかな くもきりの たち居にかほる ふしのすかたは」 貞心尼
不二とは、同家から見える藤権現と思われる。

「良寛道人遺稿」の出版を、松原雪堂の家に報告に訪れたものと思われる。
1869 明治2年 72 3月27日夜、2人の盗人が不求庵に入る。

6月12日、蔵雲和尚死去す、57歳。

12月、小出嶋村の旧知を訪ねる。帰りに関長温と親交のあった漢方医・寒河惟春(さがえいしゅん)を訪ねる。
 「やよしばし さほさしとめよ 渡し守 それかあらぬか ほととぎすなく」 貞心尼
1871 明治4年 74 5月21日、歌友小熊茂樹死去す。

自選歌集「もしほ草」完成。
最後に詠まれた次の歌が歌集名の由来と思われる。
 「書きおくも はかなき磯の もしほくさ みつつしのばむ 人もなき世に」 貞心尼
1872 明治5年 75 2月11日(新暦3月10日前後)不求庵、貞心尼は弟子の孝順尼、智譲尼に看とられ死去す。医師は、矢代文卿。

法名は孝室貞心比丘尼(こうしつていしんびくに)。
墓は洞雲寺にある。いつ頃建立されたものか不明。
弟子の孝順(こうじゅん 乾堂孝順比丘尼)、智譲(ちじょう 謙外智譲比丘尼)が墓を建立。

病気は俗に言う水気。
病気が重くなってきて、次の二首を残している。
いつまでか 長きいのちと わびにしも 今はかぎりと なりにけるかな」
あとは人 先は仏に まかせおく おのが心の うちは極楽」

死の前日主治医八代文郷が「何か言い残すことは…」と尋ねたら「何もいい置くことはありませんが、わたしが死んだら、あの柳の木の下に大きな釜を据え、豆腐のおからをうんとこしらえて、町中の犬に腹一杯振る舞ってやって下さい。」と言ったという。

臨終の前に、次の一首を弟子達に示した。
 玉きわる いまはとなれば 南無佛と いふより外に 言の葉もなし」
貞心尼の墓には、示寂の前日弟子達に示した、辞世の歌が刻まれている。
 来るに似て かへるに似たり 沖つ波 たちゐは風の 吹くに任せて」

明全尼の無縫塔が側にある。
1876 明治9年   良寛の弟子遍澄(へんちょう)死去す。76歳 墓地は妙徳寺。
  明治13年   極楽寺第28世静誉(じょうよ)上人死去す。72歳
      釈迦堂の仏壇の黒い大きな位牌には、金文字で「孝室貞心尼首座」「乾堂孝順尼」、裏面には「明治廿八年乙未五月十七日」、「明治五壬申二月十一日」と書かれてあったことから、貞心尼は首座の位階であったと思われる。

この位牌は、釈迦堂がなくなったときに薬師堂に移された。その後、不明となっている。
1895 明治28年   5月17日、乾堂孝順比丘尼 歳。
  明治半ば   釈迦堂再建。貞心尼の弟子智譲尼が住んだであろう
  明治30年   不求庵、火事で焼けてしまう。
1932 昭和7年   謙外智譲比丘尼死去す。80歳(1852〜1932)
      智譲尼の話
○「わしらが庵主さんほど器量のえい尼さんは、わしは此の年になるまで見たことがありませんのう。何でもそれは目の凛とした、中肉中背の、色の白い、品のえい方でした。わたしの初めておそばに来たのは、庵主さんの62の年の5月14日のことでしたが、そんなお年頃でさえあんなに美しくお見えになさったのだもの、お若い時分にはどんなにお綺麗だったやら…」
○「庵主さん程立派な人は見たことも無いが、お経声の悪いこと、あんな人もないもんだ。」
それで晩年にはめったに他所へ行って読経されなかった。須磨琴という一弦の琴を弾いてそれに合わせてお経を読んでいた。
○「庵主さんは祥山や明全(福島から連れてきた同一家生まれの弟子達)を思って…祥山も明全も、どうも身体を粗末にしてならない。祥山は洞雲寺へ盆内の手伝いに行って、茄子のしたし物を食べ過ぎて、とうとう赤はら(赤痢?)になって死んでしまった。…と言っていた。」
1991 平成3年   11月4日、曹洞宗洞雲寺において、貞心尼と良寛の「恋学問妨」と題する歌の碑の除幕式が催された。貞心尼筆になる歌が鮮やかに刻まれている。
 「いかにせむ まなひの道も 恋くさの しけりていまは ふみ見るもうし」 貞心尼
 「いかにせん うしにあせすと おもひしも 恋のおもにを 今はつみけり」 良寛

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